オモいとモノ

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パワハラ容認は強者の戯言と記憶の改変

 厳しい環境を、耐え抜いてきた人の一部には時々「自分たちはもっと厳しい環境でやってきたんだ」「今となってはいい思い出」なんていう人がいます。

 

 それを基準として「これくらいの事に耐えられなくて、どうやって生きて行くの」「ちょっと何かあったらパワハラとか言うんでしょ」とか言いながら、威圧感をもって人と関わる人がいます。どうやらその人は、

 

・あるスポーツを頑張ってきた。厳しい環境で、殴られたり蹴られたり、理不尽な環境でやってきた。その環境から逃げ出したけれども、それは今となっては笑い話。

 

とか言っています。

 

 その努力と、耐え抜く力は賞賛に値します。よくここまでやり切ったものだと思います。



 でも、だからと言ってすべての人に厳しく接し、「好かれなくてもよい」とか言いながら十代の若者に威圧的に接していいことにはなりません。

 

 前提条件として自分で選択して選んできた道ではない環境の中で、目指すものも違います。また、自分自身は何度も逃げ出したり、理不尽だと思ったりしているのに、同様の思いを他者にさせるような言動をとっていることに矛盾を感じないのでしょうか。今となっては笑い話であろうとも、当時の自分には耐えられないほどの事だったから「環境から逃げ出す」ということをしていたのに、です。

 

 そのような言動をとる人が、上長からの指示に対して陰で

「ありえん!」

とか言っている様子を見ます。

 

 いやいや、ちょっとくらい理不尽なことがあっても、大丈夫なんでしょ。パワハラとか言ってちゃダメなんでしょ。上長の指示は多少「はぁ」と思う部分も無いでは無いですが、間違っていることでもありません。

 

 パワハラを容認するのは、自分の立場が「強い」と無意識のうちに認識しているからです。多くの事を力で解決をすることができると思っていて、周りに「自分を止められる者がいない」と思っているからできるのです。

 

 確かに、指導的な意味や、本人の思考を止められる人はいないかもしれません。ただ、社会や時代の流れに感度があり、将来どんな方向を向いているのかを見通そうとしている人であれば、パワハラ容認がどのような結果を招くのかは考えられるはずなのです。それでも変わらないのは「今の自分が強い」という思考にほかなりません。

 

 

また、別の人は

・(上の人とは別のスポーツで)無茶苦茶厳しいことがあったんだけど、今、友達と会うと、「あれはやばかったよね」とか言って笑えます。その時の指導者には感謝しています。

 

と言っています。

 

 やっぱり耐え抜く力はすごいです。

 

 ただ、その指導者の厳しさを、自分の仕事(の上長)に適用されたらどうなのでしょうか。自分で選択したという点でスポーツと仕事は同じです。でもパワハラや理不尽なことがあったら納得できないでしょう。

 

 若く、社会を知らない状態で圧力のある指導を受けても「こんなもんか」ですが(それもかなり問題だけど)、社会を知ったうえで圧力を受けるとそれは人権の侵害です。それを混同しているのは記憶が改変されたからに他なりません。



 こんな状況が二十代の同僚にあります。

 そんな昭和なことやってたら、あと三十年働いてられないぞ。

変わること、なくすもの、手に入れるもの


 最近読んでいる本、森見登美彦さん著の「有頂天家族」。全然ページが進みません。森見登美彦さんやその本が苦手というわけではないんです。

 過去には「夜は短し歩けよ乙女」を読んで「面白かったー!」っていう記憶があります。話に出てくる「偽電気ブラン」とはなんぞやと、調べた記憶もあります。冴えない男性主人公ととても魅力的なヒロインが出てきてドキドキしながら、「はよくっつかんかい!」なんて思いました。

 「有頂天家族」も森見さんの構文で書かれていて、時々出てくる擬音語、擬態語に愛らしさを感じるんです。想像力の働く情景の描写も魅力的です。ただ、そこまで。本来ならクスッと笑いを誘う言葉の使い方もあるのですが、そこに笑えない。ストーリーのゴールが見通せないし、見通せなくてもいいんだけど、心を動かすものを感じられない。

 これはきっと、自分が変わったんだなと。

 「夜は短し…」の頃ことは自分の考え方や心に留まりやすいものが変わったんだなと。歳もとったし、立場も変わったし、家族もできたし、時間の使い方も変わったし。その過程の中で、"今の"自分の心には引っかからない物語なのだなと。

 ちょっと寂しい。けれどもそんなこともあるよなとも思います。

 子どもの頃、レゴブロックに夢中になって、何時間でも集中して取り組めてしました。でも、今同じことができるか?できないです。自分の子どもを見ていると本当に何時間でも紙切れとか棒切れ、石ころで遊んでるけど、今の自分にはできないです。
  
 この写真は、昔の自分なら全く興味のわかなかったであろう科学館のオブジェ。

 新しく面白いものを見つけられるようにもなる。

その言葉で、どうやって生きていく?

 多少の落ち度はあっても、困っている人に対して「自分もできてないのに被害者ヅラすんなよ‼」なんて言える人には、自分は絶対になりたくない。

 そんな言葉を、本人にも、その人の家族にも、全く関係ない人にも、その言葉を自分の責任で言ったと、胸を張って言えるんだろうか。私は絶対に言えない。人として生きていくってことは、いつでも、どこでも、誰にでも見られても大丈夫な生き方じゃないと絶対にぼろが出るでしょ。それを伝える側が、「被害者ヅラ」なんて言葉を営業時間内に、不特定多数が耳に目にできる場で言ってたら、それはまわりまわって自分に返ってきちゃうよ。

 「被害者ヅラうんぬん」と言ったAさんは力があって仕事のできる人だけど、考え方がズレたままやってたら、やってることに対してズレた理解をされちゃうんじゃないの。Aさんは「目指せNo.1」で仕事しててそれを達成する力もあると思ってる。でも、今の状態じゃ仕事をお願いしたいとは思えない。一緒にいろんなものを作り上げていく仲間として取り組んでいきたいけど、このままじゃマズいよ。今のままじゃ「あなたと一緒に働きたい」とは思えないよ。 

 人って、その人の使ってる言葉がその人を作ると、よく言われるけど、完全に同意なんだよね。バカとかアホとかって言葉を人に向けられる人って、人を下げて自分を上げようってしてる人でしょ。私には完全にそう見えるんだよね。見るのも聞くのもイヤ。人に「それはだめよ」っていう側の人間がおんなじことやってたらどーすんのよ。今のAさんの状況を周りの人が見たら、「いってることと、やってること違うじゃねーか」にしかならないでしょ。これを止めてあげたい(あげたいなんてエラそげでいやだけど…)んだよね。でも「優しいのがいい事じゃないんだよ‼」なんていってる人に、「優しさをウリにしてるように”見える”人(こーしゅんのことです)」が言っても聞く耳も持たないでしょう。コンチキショウ。

 Aさん、痛い目を見て、学ぶことになるのかな。そうならないようにしたいけど、なったとしても、最後まで私も責任を持ちますよ。